This is me サッカーに生きる 上原祐介
私は現在、沖縄の町クラブでサッカーコーチとして活動しています。
小学校2年生から始まったサッカー人生の中で、プロサッカー選手になれなかった後にコーチをしたいと思うのは私にとってごく普通で、ごく自然な流れでした。そして、なぜ沖縄で指導者として活動していく事を決めたのかお話をさせてください。
私は、サッカープレイヤーとしての人生において、最後まで日の目を見る事はできませんでしたが、サッカーが経験させてくれた事は今となってはとてもかけがえのない財産になっています。
海外とサッカー
中学1年生だった 2002 年当時、日韓共催ワールドカップが開催され日本中が熱く燃えている中、僕は父親にフランス vs デンマークの試合を観に韓国へ連れて行ってもらう事になり、初めてワールドカップという世界でも最大級の祭典の興奮と感動を肌で感じる事ができました。
そこからというもの、サッカーの魅力にさらに取り憑かれてしまうことになり、高校1年生の時には1か月のブラジル留学も経験。そこで見たのは、ブラジルがサッカー大国である理由、サッカーがブラジル人の希望である理由でした。
今となっては経済的にも発展を遂げたブラジルですが、やはり今でも貧富の差が激しい中でスラム街や、その近くでの犯罪は当たり前のようにあります。よく日本で言われるような、靴下をくるめて作ったサッカーボールを使い、裸足で道端でサッカーをする姿。紅白戦や練習といえど、仲間に対してあたりに行くチャージは日本人の想像を遥かに越える鬼気迫るものがありました。
じゃあ、なぜ彼らがそこまで必死になっているのか。
それは、家族まで全て背負ってサッカーというスポーツに人生を懸けているからです。彼らは、サッカーで成功しなければ一生スラム街から抜け出す事は出来ず、来月の生活も安心できない生活へ逆戻りしてしまいます。僕はこの時に、サッカーへの価値観と、沖縄という小さな島国に取り残されているような感覚に陥り、このままじゃ日本が世界の仲間入りするなんて、ましてやサッカー後進県と言われる沖縄県にい続ける事が怖いと、自分のサッカー人生を考えるようになりました。
タイサッカークラブで働く
そこから数年が経った 23 才の時に、タイでプロサッカー選手として活躍していた方と共通の知り合いを介し、タイでサッカースクールを起業する仲間として一緒に働かせてもらう事になりました。
当時のタイは、まだプロサッカー選手としてチャレンジできる土台があり、心の奥底に残っていたサッカー選手としての夢を追いかけながら、タイに駐在する日本人の子供達のサッカースクールのコーチとして活動する事になります。
当たり前ですが、海外に出ると日本の当たり前が一切通じなくなります。私生活においても、仕事においてもそこは共通していて、最初は衝撃の連続でしたが、ここでブラジルに行った時のような感覚を思い出します。
「タイ バンコク 観光」と調べると、それは華やかなショッピングセンターがあったり、色鮮やかに装飾されたナイトマーケットがあったり、とても楽しそうな写真が溢れています。しかし実際に生活し、サッカーで色々な地域に行くと、トタン屋根の今にも崩れそうな家がたくさんあったり、夜の華やかな通りには小さい子供がお金を求めて観光客に声をかけたりしています。
タイに限らず、東南アジアではよく見られる光景かもしれませんが、タイでも貧しい生活を打破する為のひとつとしてサッカーがあるような気がします。僕は幸いにも、貧しい中でサッカーを人生の希望として生活している人たちを身近で見て感じる経験をさせてもらい、ブラジルやタイだけでなく、他にも色んな国へ連れて行ってもらった事で、日本がどれだけ素晴らしい環境が整った国かを感じる事ができました。
そして今、沖縄で
沖縄へ一時帰国していたある時に、自分がさせてもらった経験を生かし、サッカーコーチとして沖縄のサッカー界の為に何か出来るんじゃないか?と考えるようになった僕は、タイから沖縄へ引き上げ、沖縄のサッカーをする子供達に、自分の経験や見てきた事を伝えながら、サッカーを通して子供達の成長の手助けする事を決意しました。
本帰国してからは、タイへの遠征を自チームだけでなく、沖縄県の国体候補選抜の選手に対しても行うことができました。彼らが短い時間で何を感じ取ったかはわかりませんが、彼らの経験として人生の糧に蓄積され、その経験の中から、サッカーだけでなく沖縄全体の発展に関わる人材が出てくることを信じて、これからも活動を続けています。