一度は諦めかけた競技人生 琉球コラソン松信亮平

松信亮平(まつのぶ りょうへい)

琉球コラソン/ハンドボール選手
茨城県
1985年9月29日(35歳)

活動内容

 日本ハンドボールリーグに所属する沖縄県のクラブチーム、琉球コラソンでプレーをする松信亮平選手。トヨタ紡織九州で5年、琉球コラソンで8年。ハンドボール選手として今年で13年目を迎えるベテラン選手だ。日中は、スポーツ店の店舗スタッフとして働きながら、夕方から夜にかけてハンドボールの練習を行う。家に帰るのは夜遅くになることが当たり前。そんな超多忙な日々を駆け抜けている。

今までお世話になった人への感謝の気持ちと自分を育ててくれたハンドボールへの想い入れは強い。茨城国体でのクラウドファウンディングを始め、S N S や音声アプリなどを用いて、日々ハンドボールについての情報発信を行なっている。

自ら運営するECサイトの「松信商店」では、Tシャツの売り上げ分で小学生にハンドボールをプレゼントしている。ハンドボールの魅力を未来に繋ぐ架け橋となっている。

また、一児のパパであり、一家の大黒柱としても欠かせない存在である。愛しの息子といつも支えてくれている奥さんへの感謝の気持ちは忘れない。

そんな松信選手を作り上げた過去の原体験や信念についてインタビューを行った。

小学生時代の夢は学校の先生とスポーツ選手

身近な大人といえば家族か学校の先生で、とにかく身近な大人に憧れていた。地域のバスケットボール大会で優勝させてくれた熱い先生がいたり、遠くに離れている親の病気の看病をしながらも授業を成り立たせてくれる先生がいた。生徒のために動いてくれる先生という存在に影響を受けて学校の先生になりたいと思っていた。そして、何よりもスポーツが好きだった。スポーツ選手みたいなかっこいい大人になりたい。この2つの身近な存在が小さい頃の夢だ。

三人兄弟の末っ子で、とても人見知りだった。外に出ていくのが好きではなく、外食するのもすごく嫌。家族からすると、とにかくめんどくさい子供だっただろう。

転機が訪れたのは、中学校1年生。父親が高校までハンドボールをやっていた影響もあり、ハンドボールを始めた。なぜか地元にはハンドボールチームがあった。周りの小学校には、ハンドボールを熱心に指導されている指導者さんのいる学校もあり、中学校から始めた松信選手は、周りの人への劣等感を感じていた。周りの人に負けないように一生懸命練習に取り組んだ。

「ハンドボールを通じて、人間形成されていった。礼儀やマナーも勉強させてもらい、性格も修正してもらった。」

高校は、学外の名門校に進学した。電車とバスを使って片道1時間半から2時間かけて通学をした。全国で戦うために、自ら苦しい道を選択したのだ。

「親には感謝しきれないくらいのサポートをしてもらったので、頭が上がらない。」

家族を大事にする想いと、応援してくれる人のためにという信念はこの頃に作られたのかもしれない。高校時代に、人との繋がりの大切さを学べたことは財産の一つである。

大学では、自分の市場価値を高めるためにもいろんなことに取り組んだ。ハンドボールをしながらも就職活動を行い、小さい頃から夢だった先生になるために教員免許も取得した。

人生のターニングポイント

 大学4年生の時に1度ハンドボールから離れようとしていた。周りの人が当たり前のように就職活動を行う中で、就職活動を真面目に行う人の方がかっこいいと思うこともあった。その後一般企業に内定をいただくも、ハンドボールへの想いは消し去ることができず、トライアウトを受けることを決意する。

「一度は、競技人生が終わったように思った。終わりに向かっていた奴がもう一回頑張ろうという気持ちになれたので、感謝の気持ちというか貢献する気持ちは人一倍強い」

当時の覚悟があるから今がある。あの時、一般企業に就職していたら全く別の人生を歩んでいたことは安易に想像できるが、一度はハンドボールを終わりにしようとしていたところから、スタートした競技人生。この覚悟こそが今の松信選手を形作っている。

※松信様ご提供

応援されるような存在に

 13年間ハンドボール選手として活動をしてきて、選手として努力をすることは嘘偽りなくやってきた。その証明として、13年も現役選手として活躍し続けている。もちろん、順風満帆にいくことなんてなかった。何に向けて頑張ればいいのかわからない時期もあった。そんな時に支えとなったのが家族や同期、応援してくれている人の存在である。

「大学時代に、1度選手生命が切れた人間なので、何かしら残して置かないとという反骨精神みたいなものもあった。」

これまで出会った人や支えてくれた人に応援されたい。もっとたくさんの人にハンドボールを見て欲しいし、応援されるような存在になりたい。

「ハンドボールはもっと魅力的な場所であって欲しい」

近年、JリーグやBリーグなどプロ化が進んでいるスポーツ界の中で、ハンドボールは遅れを取っている部分もある。ハンドボールをみんなに知ってもらうという意味でも自らが情報を発信していく必要もある。

SNSや音声配信アプリを活用して、日々思ったことやハンドボールの魅力について発信している。ハンドボールを発展させることも大切だが、ファンの方々への感謝の気持ちも忘れていない。

「ファンの方々が少しでも、松信のことを知ってくれたら嬉しい。応援されるような存在になりたい。」

また、自ら運営するECサイト「松信商店」では、 Tシャツの売り上げ分で子供たちにハンドボールをプレゼントしている。

ハンドボール選手としてだけではなく、今まで支えてくださった方々への恩返しという想いも強い。

※松信様ご提供

今後の目標

 「ハンドボールをより文化として根付かせていくために、街を作りたい」

地元の茨城県には、土地がたくさんある上にそのコミュニティを大事にすることができる街がある。ハンドボールを通じて、街を活性化できるような仕組みづくりを県レベル、地域レベルで行い、それをモデルにすることで全国的に広げていく。ハンドボールをより文化として根付かせていきたい。

若い人たちが動かしてきたし、これからもそうなるべきだと思う。だが、その若い人たちが動きやすいように団体の上にいる人がいろんな人脈を活用しながら、うまく繋がっていければ良いなと思う。

 嘘はつかない人でいたい。約束を守る人でいたい。

 嘘はつかない人でいたい。約束を守る人でいたい。

常になりたくない自分を真っ先に想像する。なりたくない自分にはならないようにということを心がけている。なりたい自分になるって言ったら、ハードルが高く聞こえてしまうかもしれない。だから、少なくともなりたくない自分にはならないと言い聞かせている。

今まで支えてくださった人やお世話になった人のためにも、嘘をつかないことや約束を守ることは肝に命じている。

私にとってのconnect

 ここ1.2年にかけていえば、自分のことを取り挙げてもらえるような機会が増えた。話を聞きたいと思われるようになって正直嬉しいし、自分が行ってきたことは間違いではなかったと思える。だが、自分の価値観を押し付けるだけではいけないし、毎回話をする中で新しいことを言えるようになりたい。完全に伝える側に回ってしまうと、終わった人のように感じてしまう部分がある。connectという答えはわからない。けれども、今まで出会った人や支えてくれた人への感謝の気持ちを忘れず、日々進化することは心がけている。自分の話をするだけではなく、自分も共に成長していく。

「これも全部父親の影響かもしれない。ここら辺の感覚は父親と似ている。親ってすごい。親ってすごいなって思っている。」

※松信様ご提供

終始、親や周りの人、今まで支えてくれた人への感謝の気持ちが溢れていた。
親から受けた恩恵を父親となった今、子供たちの世代に繋いでいく。

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