This is me
This is me「常に自分らしく。」 橋本 光晟
1994年11月生まれ
サッカー選手
僕は、宮城県登米市米山町という場所に三兄弟の長男として生まれた。周りは田んぼばかりで電車も止まらない。そんな場所に生まれた。
僕のサッカーの始まりは小学4年の冬のベガルタのサッカースクールだったそこからスポ少に入り本格的に始めた。僕の地域は当時はサッカーよりも野球が盛んだった。野球は各小学校にチームがあり、サッカーは合併チームだった。
This is me
This is me「常に自分らしく。」 橋本 光晟
1994年11月生まれ
サッカー選手
僕は、宮城県登米市米山町という場所に三兄弟の長男として生まれた。周りは田んぼばかりで電車も止まらない。そんな場所に生まれた。
僕のサッカーの始まりは小学4年の冬のベガルタのサッカースクールだったそこからスポ少に入り本格的に始めた。僕の地域は当時はサッカーよりも野球が盛んだった。野球は各小学校にチームがあり、サッカーは合併チームだった。
小学校の時の同学年でサッカーをしているのは僕1人だけだった。皆が放課後に野球をしている時僕は家に帰り壁当てするそんな毎日だった。
僕は、この頃からサッカー選手になりたいと強く思っていた。日韓ワールドカップを見てから僕は日本代表の気迫に圧倒され、サッカーの虜になっていた。
サッカー選手になりたい。その思いとは裏腹に僕は小学校の時に県大会にも出ていないし、県選抜にも選ばれた事がない。僕は、地元でも名が知れない平凡な選手だった。
そして僕が進学する中学校にはサッカー部がなかった。僕がサッカーを続ける条件は、クラブチームのセレクションに合格する事しかなかった。
サッカー選手になるにはこの環境ではいけないと思い地元のクラブではなく片道1時間半かかる仙台のチームのセレクションを受けることにした。
セレクションでは宮城で有名な選手や県選抜に入っていた選手など錚々たるメンバーがいた。誰も僕のことなど知っているわけもなく、お前呼ばわりされた。ポジションも本来のポジションをやらさてもらう事ができず、やった事のないセンターバックをやったりもした。この時、僕は初めて自分が嫌いになった。何も言い返せない、自己紹介もできないそんな自分に嫌気がさした。案の定僕は、セレクションを落選した。
その後次々とセレクションを受けA.Cアズーリというチームに拾ってもらった。
僕はサッカー選手になるために環境を変えた。仙台のレベルの高いチームに行き、自分で自分に試練を与えた。ついて行くだけで一杯一杯だったが、必死に練習した。そして小学生の頃は県大会にも出場できなかった僕は、クラブユース全国大会に出場した。
そして高校は同じ宮城県にある東北高校に進学した。この頃から地元の友達から「応援しているね」と言ってもらう事が増えた。少しずつ応援してもらっているという事が実感できるようになってきた。初めての感覚だったのを今でも覚えている。
そして大学はより厳しい環境に身をおきたいと思い、東京にある国士舘大学に進学した。厳しくもあり、充実した4年間を過ごす事ができた。僕はBチームからヴァンラーレ八戸に入団した。多くの方の支えがあり僕はサッカーを続ける事ができた。
そして、そこから今現在のコバルトーレ女川に移籍した。平日は不動産の仕事をし、夜に練習という流れで行っている。その傍、時間を見つけ実家のお米作りもしている。おじいさんが動けなくなってきた事、登米市のお米の美味しさを多くの人に味わって欲しいそんな思いから行っている。オフの日には、小さい頃の僕のような経験をなくしたい、そんな思いから地元でサッカースクールを開いている。子供たちからは、純粋な笑顔と元気をもらっている。
僕は、決してサッカー上手いわけでもない。ただ人一倍諦めが悪い。どんな逆境に立たされようと簡単には諦めない。周りから見ると迷惑な部分もあると思うが、納得が行くまでやり続ける。いい意味でも悪い意味でも。僕はこれからも泥臭くもがき続ける。
常に自分らしく。いつも全力で。
これが橋本 光晟。This is 橋本 光晟。